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[テーマ4] 明石の焼き物

明石の大久保町から魚住町にかけては、焼き物づくりに適した粘土と燃料になる薪が豊富で、また、舟を利用して製品を各地へ運び出しやすいという土地の利もあって、古くから焼き物を盛んにつくっていました。

古墳時代には、登窯(窖窯/あながま)を使って、高温で焼いた硬質の土器をつくる技術が朝鮮半島から伝わりました。
この土器は須恵器とよばれ、飲食物を盛ったり、貯えたりする容れ物として、また、古墳にお供え物をする容器として使いました。

奈良時代になると律令体制がしかれ、各地でつくった須恵器を都へ貢ぎ物として運びました。この時期は国分寺などの造営に関連して、須恵器と共に瓦を焼いた窯を多くつくりました。

律令体制がくずれた平安時代後期には、大甕(おおがめ)や調理用具のこね鉢などの日常雑器を大量に焼き始めます。
江戸時代になると多くの藩で独自の陶磁器を焼き始めます。このころには時代の風潮に合わせ、茶器などの風雅な焼き物を多くつくっています。

須恵器づくり

角杯形土器 須恵器(赤根川金ケ崎窯出土)大阪府南部など限られた地域で始まった須恵器づくりは、6世紀前半になると地方に広がっていきます。

赤根川金ヶ崎窯はこの時期のもので、東播磨地域ではもっとも古い窯跡です。
ここからは、朝鮮半島と深いつながりのある角杯形土器や装飾付須恵器が見つかっています。

古代の焼き物

鴟尾高丘の丘陵一帯には、古墳時代の終わりから奈良時代にかけての須恵器や瓦を焼く窯が約20基あり、ここで焼いた瓦は奈良県奥山久米寺まで運ばれています。

また、3号窯から出土した鴟尾(しび)は大阪市四天王寺に葺かれていたものとよく似ています。

中世の焼き物

こね鉢、甕(かめ)大久保町の赤根川と魚住町の中尾川沿いでは、12世紀から15世紀にかけての窯が約50基あります。

13~15世紀になると赤根川沿いへと生産の中心を変えます。
中尾川沿いでは、こね鉢・甕などの日常雑器と瓦を焼き、赤根川沿いではもっぱらこね鉢を焼いていました。

やがて、このこね鉢も室町時代になると硬くしまった備前焼に押され衰退していきます。

近世・近代の焼き物

明石焼は江戸時代中期頃から焼き始め、幕末・明治・大正を経て昭和の初め頃まで300年以上にわたって焼かれました。

明石焼の初期には、仁清や古清水写しの京風の色絵のものが多くつくられました。
さらに、明治末から大正へかけての最盛期には欧米や東南アジア向けの輸出陶器が盛んに焼かれました。

近世・近代の焼き物

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