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[テーマ7] 明石城と城下町

羽柴秀吉は、天下統一を進めるため三木合戦後の、1585年(天正13年)に家臣の所領替えを行い、高山右近を明石に封じました。
右近は枝吉城に入り、船上(ふなげ)に城を築き約2年間にわたり明石を治めました。
この時期は船上が明石の中心でした。

江戸幕府が開かれ、二代将軍徳川秀忠の命を受けた譜代大名小笠原忠政は、幕府の援助と姫路藩主本多忠政の協力を得て明石城を築きました。

高台の地、人丸山(赤松山)に築かれた明石城は、西国の外様大名をにらみ、山陽道と明石海峡をおさえる「国堅めの城」という役割を果たしていました。

藩主には親藩や譜代の有力大名が入部し、城下町・港・街道の整備などが行われました。また、領民も新田開発や産業振興のため努力を重ね、城下は発展しました。

明石城を築く

明石城明石城の築城にあたっては、和坂(かにがさか)・人丸山・塩屋の候補地がありましたが、小笠原忠政と本田忠政が人丸山を選び、二代将軍徳川秀忠がこれを決定しました。

ここには、柿本人麻呂の祠がありましたが、大蔵谷(現人丸山)に替地を与えて移転させました。

地形を巧みに利用して、西から本丸・二ノ丸・三ノ丸と一列に曲輪を並べた連郭式の平山城が築かれました。
築城当時は、本丸の南の帯曲輪と薬研堀はつくられていなかったようですが、徐々に整備され約30年後の絵図では、ほぼ完成していたことがうかがえます。

本丸は天守台のみで天守閣は築かれませんでしたが、四隅の三重の櫓(やぐら)は威容を誇りました。

本丸に残る重要文化財の二つの櫓のうち東の巽(たつみ)櫓は船上城から、西の坤(ひつじさる)櫓は伏見城から移されたと伝えられています。
城の中心部は現在も残っている桜堀・薬研堀・千石堀・中堀・剛ノ池などで守られていました。

明石藩について

明石藩は一国一城令が出された後、1617年(元和3)に新しく開かれた藩です。

藩主は小笠原忠政の入部後、65年間に5家7代の大名がめまぐるしく交代をかさねるなかで藩の基礎が固められていきました。
1682年に松平直明が入部し、1871年の廃藩置県まで松平(越前)家が10代189年間藩主となり、明石の藩政は安定しました。

藩主は新田開発に力を注ぎ、後に老中となった松平信之や新田開発を進め煙草の生産を奨励した松平直明など領民から慕われた名君も多く、また家臣にも砲術の荻野六兵衛や儒学の梁田蛻巌(やなだぜいがん)など優れた人物がいました。

明石の城下町

城下町は、大明石村・大蔵谷村と中庄村の一部につくられました。武家屋敷は中堀と外堀の間に城を囲むように建てられました。

町屋は外堀と海の間に、山陽道を中心に東本町・西本町など10町にわかれていました。この町割りは、当時明石に立ち寄っていた姫路藩の客臣宮本武蔵が行ったと伝えられています。

城下の繁栄のため、明石町では地子銀(町屋に課せられる租税)が免除される振興策がとられました。1721年(享保6)には町も15町に増え、戸数1,903軒、人口8,922人の人々がくらしていました。

大工・米屋・紙屋・鍛冶屋など30余りの職業が営まれ、港と街道の恵みを受け城下は繁栄しました。

明石の文化

三十六歌仙絵及び和歌式紙18世紀になると、商業の発達を背景に松尾芭蕉によって高められた俳諧など町人を中心とした文化が栄えます。

明石では、西島村の庄屋の卜部起蝶や中尾村の窯元の西海千尋などの俳人が活躍しました。
また、西岡村出身の石田幽汀は円山応挙の師にあたり、写生力と豊かな装飾性に富んだ絵画を残しています。
次男の遊汀も画家として京都で活躍しました。

一方、武家社会では幕藩体制の安定とともに儒学が盛んとなります。
藩主松平直常に招かれた儒学者の梁田蛻巌は、郷学「景徳館」を開き教育の普及に努めました。

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